日本のビルメンテナンス産業創生の礎

             ――浅地庄太郎伝  (2023年2月新刊)


    浅地正一 監修
    岡田玉規 編著

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  ■書店販売書籍: \2,420 (税込/四六判上製本256頁 ISBN978-4-434-31432-2)
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 ◎本書について
  ビルメンテナンス産業誕生から70年余、日本経済発展の[拠点]を支え、ビルと共に生きた男の物語


GHQの支配下にあった日本の戦後復興期、占領行政の終わりとともに、日本において初めて、契約によるビル管理(メンテナンス)という業務形態がスタート。やがてそれは、自然発生的にビルメンテナンス業という新しい産業として右肩あがりの発展を遂げた。今や117万人余が従事し、売上高4兆数千億となったビルメンテナンス業界の中心で、この産業を牽引してきた浅地庄太郎という男の存在がある。本書は、すでに若いころから先見の商才を発揮し、GHQでは住宅建物局日本人首席顧問として占領軍と日本側との橋渡し役を務め、やがて日本のビルメンテナンス業の創生と発展を導いた浅地庄太郎の功績を記録した人物伝である。浅地はついに、各国の同業者によって設立された世界ビルサービス連盟の終身名誉会長にまで就任した。明治38年3月16日生まれ、金沢市出身の浅地庄太郎は、昭和58年8月8日、78歳の生涯を閉じた。

単価 : ¥2,200 (本体価格)★消費税10%定価2,420円
数量 :   (クレジット・郵便振替がご利用になれます)

◇監修者プロフィール
 浅地 正一(あさじ しょういち):昭和13(1938)年生まれ、東京都出身。昭和35(1960)年慶應義塾大学経済学部卒業。同年日本ビルサービス株式会社入社。昭和50(1975)年同社代表取締役社長就任。平成17(2005)年同社株式をビル代行に譲渡、同特別顧問に就任。昭和45(1970)年社会福祉法人東京都共同募金会理事、昭和50(1975)年社団法人東京青年会議所理事長、昭和52(1977)年社団法人全国ビルメンテナンス協会理事、昭和57(1982)年東京商工会議所議員、昭和58(1983)年東京都地方職業安定審議会委員、平成5(1993)年労働省中央労働基準審議会委員、平成6(1994)年東京都環境審議会委員、平成13(2001)年東京商工会議所副会頭、平成14(2002)年福祉住環境コーディネーター協会会長、平成15(2003)年内閣府男女共同参画会議専門委員など、多くの役職を歴任。現在、東京商工会議所顧問、東京都公園審議会委員、芝パークホテル株式会社社外取締役 〈本書に掲載の浅地正一顔写真は、CC BY-SA 4.0 (Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International) の下で公表〉。
 
◇編著者プロフィール
 岡田 玉規(おかだ たまき):昭和30(1955)年生まれ、兵庫県出身。昭和52(1977)年京都産業大学法律学部卒業。同年株式会社社会環境研究所入社。編集部次長、同取締役編集長などを歴任。その後、日本ビルサービス広報部長、総務部部長、グローブシップ総務部長代理兼広報課長、同参事などを経て、現在に至る。平成20(2008)年から特定非営利活動法人快適な街づくり協会理事長。著書としては『究極のビル観察学』が、また共著として『東京大転換』『再開発 東京ベイネットワーク』『再開発 大阪ベイネットワーク』(すべて住宅新報社発行)などがある。また絶版となっていた『逗子なぎさホテル物語』(復刻版)、『建物清掃の実際』(復刻新訂版)の復刻に取り組み、編集を担当した。
.『窒息的繁榮――論現代經濟發展和地球溫暖化(窒息な弥栄え――現代経済発展と地球温暖化を論じる)』中國環境科學出版社(2005年10月)


●目次

 まえがき
序 章 日本のビルメンテナンスのパイオニア
◎――世界ビルサービス連盟〝終身名誉会長〟
◎――日本のビルメンテナンス業界の〝生みの親〟
第一章 少年時代
◎――父・伊三郎と母・すずの長男
◎――家の窮状の波に呑まれた姉への思い
◎――わんぱくだが利発な少年時代のエピソード
第二章 金商時代
◎――一敗地にまみれた上級学校、金沢商業への進学
◎――得意科目は英語と珠算
◎――育まれた人間としての基礎
◎――金商バザーの商業実践で驚くべき商才を発揮
◎――生徒たちによる授業放棄、大正デモクラシーの風潮
◎――商業学校生徒の「海外見学旅行」
第三章 輸入食料品取扱販売業・菊屋で初就業
◎――青雲の志、舞台は東京、そして軽井沢
◎――輸入食料品取扱販売業・菊屋に入社
◎――関東大震災の洗礼
◎――十九歳青年の冷静な震災メモと野望
◎――菊屋の復興での働きと乗馬
◎――菊屋渋谷店の店長に抜擢
第四章 新天地・軽井沢時代
◎――千ヶ滝(中軽井沢)からの移転を進言
◎――旧軽に新規開店した菊屋軽井沢店
◎――昭和初年に遭遇した恩人、エドナ・ミラー婦人
◎――年間四十日勝負の軽井沢、ラジオとアイスクリーム
◎――軽井沢の夏と菊屋の浅地青年
第五章 初志貫徹に揺れた実業家志望青年時代
◎――若さ漲る絶好調の青春真っ盛り
◎――仕事と家と結婚と弟・多吉
◎――一旗揚げる独立への機運
◎――父・伊三郎との永遠の別れ
◎――長男の責務と不況で揺れる昭和初期
第六章 営業三人衆と庄太郎の結婚
◎――新しいビジネスチャンス・共同漁業
◎――合同食品三人衆の営業活動
◎――花嫁・静江との結婚までのいきさつ
◎――大戦前の胸騒ぎがする時代の変化
第七章 日本栄養食での働きと戦時下の家族への想い
◎――新天地・日本栄養食での活躍
◎――給食業のため栄養や調理の勉強にも意欲
◎――大きな戦争へ向う気運のなかでの働き
◎――戦時下に建てられた川崎・中原の一戸建て自宅
◎――空襲から家族を守った疎開地・軽井沢
第八章 終戦直後に進駐したGHQの光と影
◎――終戦直後の対進駐軍設営委員会からの〝招集〟
◎――日本人を庇った巧妙なGHQ〝接収〟役
◎――GHQ住宅建物局日本人首席顧問
◎――進駐軍が持ち込んだマニュアル化された管理手法
◎――超多忙となる転機の前の戦後の安定生活
◎――あこがれの軽井沢に自分の別荘を購入
第九章 戦後復興の歴史を刻むビル管理業ことはじめ
◎――日本不動産管理:契約によるビル管理業ことはじめ
◎――三菱地所・渡辺社長への恩義
◎――管理業務にアメリカ流合理性を導入
◎――新丸ビルのテナント各社との清掃業務契約
◎――業務の悩みを救った田中定二の参画
◎――マッカーサー元帥私邸にも足を向けたアメリカ訪問の旅
第十章 日本ビルサービスの設立と躍進
◎――苦悩の末の決断、ビル管理業専門会社としての独立
◎――和の精神を土台に職員の待遇改善を軸にした経営哲学
◎――「社員の生活を守り」「お得意先の満足を得て」「会社の継続を図る」
◎――長男・正一の入社時のエピソード
◎――ABM社T・ローゼンバーグ社長から贈られた金言
◎――ダストコントロール方式と樹脂ワックスの普及に貢献
第十一章 高度経済成長とビル管理業界の生成発展
◎――業界のまとまりの先鞭役となった四社の結束
◎――社団法人全国ビルメンテナンス協会の発足
◎――ビル管理業のあり方、業界のあり方を規定する社会的な取り組み
◎――成功し信用を増した東京オリンピックへの業界参入
◎――業界の話題をさらったパレスサイドビルの開設
◎――アメリカみやげのスクイジー
◎――ガラス・クリーニングの王様
◎――ビルの遠隔管理システムを開発、運用
第十二章 浅地庄太郎の最終幕
◎――妻・静江の死
◎――庄太郎から正一への事業継承
◎――昭和五十一(一九七六)年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章
◎――世界ビルサービス連盟世界大会〝終身名誉会長〟に就任
◎――日本で最初のビルメンテナンス会社が創業三十年を盛大に祝う
◎――創業三十周年記念お得意様招待パーティで、長年にわたる支援に感謝の言葉
◎――最期の言葉「私は再び同じ仕事をする……」
 あとがき


 
 まえがき
      監修者  浅地 正一 
 
 令和となり、東京を代表とする大きな街では、都心部を中心に大規模な再開発が進められており、見違えるようなスタイリッシュな高層建築に囲まれた街並みが次々に誕生しています。長年にわたってそうしたビルや街区を管理する仕事に携わってきた私には、その華々しい街並みの背後に、時々刻々と変化する時代のニーズに合わせて、常にとどまることなく変容し、たくましく発展してきたビルメンテナンス産業と、その誕生を促す役割を果たした私の父・浅地庄太郎の姿が透けて見えます。
 講和条約の発効によって連合国からの占領が解かれた日、自然発生的に新しい産業として誕生したのが、ビルメンテナンス業です。その意味では、占領行政の終わりが、ビルメンテナンス業の始まりと言えます。
 アメリカ国務省当局からの依頼により、三菱地所の一〇〇%出資子会社として急遽設立された日本不動産管理株式会社が、我が国で初めて契約を結ぶことによって他人のビルを管理(メンテナンス)するという業務形態をスタートさせました。同社の設立に当たっては、占領時代からアメリカ大使館等で管理業務を行っていたスタッフを引き継いだ組織ではありましたが、失敗すると日本の国益を損なうことにもなりかねず、GHQで住宅建物局日本人首席顧問を務めていた浅地庄太郎を新会社に迎える条件で受託することになったそうです。それらの経緯については、本書に詳しく記しました。
 振り返ってみると、庄太郎が大変幸福な生涯を送れたのは、社会生活に不可欠な食・住に関わるサービス業務一筋に携わってきたからこそと考えます。他人のことを常に思いやり、本質的には非常に優しい人でしたが、公私のけじめは徹底しており、息子である私に対しても例外ではありませんでした。
 我が国のビルメンテナンス業は、建築物内の環境衛生管理を規定した「ビル管理法」の成立施行によって、都市産業としての基盤が確立され、「環境」を取り扱うという意味で大きな画期を迎えました。その後、大手ビルメン会社を中心にビルメン各社も信頼の証として環境マネジメントシステムに関する国際規格ISO14001を取得するようになり、今や世界の企業の潮流ともなっているSDGs(持続可能な開発目標)へとつながります。
 私見ですが、ビルメンテナンスは、SDGsそのものではないかと思います。その役割は、ビルや施設が自然環境に悪影響を与えず、その活動を長く続けられるよう、常に改善等を行い環境にやさしい管理をすることです。新型コロナウィルスの感染拡大に端を発する衛生強化の観点から、清掃等を行うエッセンシャルワーカーの社会的意義について脚光を浴びていますが、建物の環境衛生管理+SDGsへの取り組みは今後より一層重要になってくるものと思われます。
 「温故知新」――これまでの来し方を振り返り、未来を拓く。本書が、そのための一助ともなれば幸いです。
   令和四年十二月


 あとがき
     編著者 岡田 玉規
 
 私が浅地庄太郎会長に初めてお会いしたのは、大学を卒業し、日本ビルサービスの関連会社である株式会社社会環境研究所に入社した昭和五十二(一九七七)年四月のことでした。同研究所は、都市開発及び建物管理の在り方を研究調査するため、浅地会長の肝いりで、浅地正一社長と故筒井光昭氏が設立した日本ビルサービスグループのシンクタンクで、入社早々担当した仕事が、浅地会長の自伝的な著書『けじめの記』の編集作業でした。上司の指導を得つつ、青息吐息で編集作業に没頭しました。
 それから四十五年を経て、『浅地庄太郎伝』の刊行に著者として関わらせていただくことができ、不思議なご縁を感ずると共に、編集者冥利に尽きると感じております。これも偏に本書の刊行を快くご許可下さり、また監修の労をお取りくださいました浅地正一様のお蔭であり、心より感謝申し上げます。
 本書の最初の原稿は、浅地会長が亡くなられた後、同研究所において作成されました。しかしその内容は、あくまで近親者や親しい関係者を対象としたものであり、内容的にも幼少期から青年期にかけての比重が重く、肝心の壮年期以降の記述が簡略化されており、一般書としてはいささか片寄った内容のものとなっていました。このため、前半部を大幅にカットすると共に、全体の構成を見直し、追加原稿を作成、ビルメンテナンス業の草創期の充実を図りました。
 刊行に先立って平成三十一(二〇一九)年三月、軽井沢の別荘と共に浅地会長がこよなく愛した逗子なぎさホテルを紹介した『逗子なぎさホテル物語』の復刻版(グローブシップ株式会社著、知玄舎)の刊行に関わり、また翌年七月には、絶版になっていた故田中定二氏著『建物清掃の実際』(岡田玉規編、知玄舎)の復刻新訂版の刊行を実現することが出来ました。これら二冊をお読みいただくことによって、本書に対する理解がより一層深まることと存じますので、ご購読をお勧めします。
 本書の刊行に当たっては、版元の代表である小堀英一社長に表紙デザイン、本文のレイアウト等の編集作業をお願いし、また森友紀さんには追記内容のご提案と校正等をお願いしました。ここに記して、お二人の献身的なご協力に心より御礼申し上げます。
 平成十七(二〇〇五)年、日本ビルサービスの株式は株式会社ビル代行(創業昭和二十八年)に譲渡されました。譲渡に至る経緯について、当時の日本ビルサービス社長であり、本書の監修者である浅地正一氏は、「鈴木貞一郎氏を中心とする鈴木ファミリーと、浅地庄太郎ファミリーとの永きにわる交友と友情に基づく信頼関係が無ければ成立しなかったことだと思う。昔から親しく付き合ってきたビル代行に決まって本当に良かった」と語っています。
 株式譲渡から十年経った平成二十七(二〇一五)年には統合によって、新たな社名・グローブシップ株式会社としてスタートを切りました。草創期から日本のビルメンテナンス業を支えてきたリーディングカンパニーである二社の統合は、同業界のみならず、関連業界からも大きな注目を浴びました。矢口敏和社長の卓越した経営指導によって同社は着実に成長発展を続けています。日本ビルサービスとビル代行の輝かしい歴史と伝統を継承する同社がますます発展し、新たな産業構造を創造されることを願ってやみません。
   令和四年十二月吉日

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