● 野戦の想い出・・・・南支・マレー・ビルマ・ボルネオ、太平洋戦争体験記
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岸野 愿 著 四六判上製本248頁 2006年8月15日初版発行 定価1,890円(税込)
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これは、1941年12月8日に勃発し、1945年8月15日に停戦するまでつづいた太平洋戦争に、二度に渡って召集され、南支戦線、マレー戦線、ビルマ戦線、そしてボルネオ戦線に従軍した一日本兵の戦争体験の記録である。
この戦争の敗北をきっかけに、日本はすさまじい経済成長とともに大きな変貌を遂げ、国際社会に貢献するまでになったが、それには、戦争により犠牲となった人々の、心の想い出を忘れてはならない。戦争体験は、どれだけ時代が経過しても、またそれがどれほどの苦渋に満ちた内容であろうとも、戦後の日本人が、真の平和と分かち合いを共有するための精神的基盤のひとつとして知っておくべき大切な情報である。
それを伝えるために、戦争体験者としての筆者は、2005年に他界するまでの自らの体験を後世の人々のために書きためていた。
本書は、その遺志を広く伝えるために、筆者の子孫の方々の総意によって刊行された。
この大戦をマクロな視点から伝えた記録は多いが、一兵士の視点から語られた記録は貴重。被弾、渇水、漂流など、三度、四度と生死の境目を体験した生々しい戦場の現実と、家族と戦友とその悲惨極まりない死、その人間関係からつむぎだされるもの。一人の人間としての体験を通して知る大戦の記録はリアリティに満ちている。
比較的戦況がおだやかだった時期の百数十枚の貴重な写真からも、当時の様子がよく伝わってくる。
ISBN4-434-08302-3 C0091 \1800E
●著者プロフィール
岸野 愿(きしの すなお)
明治44年10月17日生まれ。福岡県田川郡川崎町出身。
旧制県立田川中学校卒業後、川崎産業組合に勤務。
昭和14年8月、小倉歩兵第十四聨隊応召、第五中隊配属。同年11月、南支派遣の征途に就き、広東上陸後、歩兵第百十四聨隊第五中隊に編入。昭和15年4月「勲八等白色桐葉章」叙勲後、広東付近警備を経て第二大隊本部付経理室勤務。昭和17年1月、タイ国シンゴラ上陸後、マレー半島、ブキテマ高地・シンガポールを掌中に収め、同年4月、ビルマ・ラングーンからメイクテーラ付近警備に尽瘁。昭和18年1月、召集解除となって凱旋。
昭和19年7月、再び久留米歩兵第四十八聨隊補充隊に応召。北ボルネオ島にて独立歩兵第四百三十二大隊第三中隊編入。終戦を迎え、昭和21年4月、復員。
以降は、農業一筋に由緒ある家門、岸野家の繁栄を支えるとともに、住民の厚い信望を得て地元発展に貢献。
陸軍兵長、川崎町農業協同組合理事、川崎町民生児童委員、川崎町中田原行政区長を歴任。
平成17年12月26日、永眠。享年94歳。
●目 次
出版に際して 1
はじめに 6
第一章 南支戦線
新塘にて 16
翁英作戦(翁源英徳) 17
設営 17
行軍間の設営での失敗談 24
行軍中の小休止 26
鵞眉堂峠越え 28
梅杭設営と迎春準備 29
梅杭での立哨秘話 30
英徳に撤退 32
広東、中山大学校に集結 33
賓陽作戦 35
賓陽平原 35
西江河畔で 37
賓陽で 37
増城地区警備 42
上等兵候補教育 44
銃剣術実科演習 45
広津班長にまつわる話 46
第二大隊経理室勤務 46
増城兵站宿舎勤務 47
兵站宿舎勤務中の思い出 50
派渾墟作戦 52
雨との戦い 52
香韶ルート遮断作戦(第二次バイアス湾上陸) 54
淡水付近の警備 56
範和崗警備 57
範和崗港で 57
苦力達の日常生活について 60
後宮閣下と対話 63
倉庫に纏わる話と倉庫内の事故 65
海亀の卵と犬肉を喰う 67
範和崗海岸での経理室員会食 69
広東省西頭村駐留 70
二大隊経理の陣容 71
焼飯に思う 73
市場で取引上のできごと 74
加給品分配の苦労 75
豊田好那少尉に会う 76
溜池と便所 77
広東出張にジャンク船で 78
飯店で蛙を喰う 79
蓄音機レコード店で 80
映画鑑賞と市内散策 80
南支戦線で見たこと 81
学友松井直英君の戦死 83
第二章 マレー戦線
シンガポール作戦 86
一、作戦命令発令の日 86
二、船内で年越しと迎春 88
三、下船者の乗船 89
四、出港命令が下った 89
五、シンゴラ上陸 90
六、マレー半島南下 92
七、ジョホールバル設営 94
八、ジョホール水道渡河作戦 95
九、シンガポール島攻撃の日 98
十、水道渡河について聞いた話 101
十一、テンガー飛行場攻撃 102
十二、黒いスコール 102
十三、チャーチル給与 103
十四、ブキテマ要塞攻撃 104
十五、シンガポール島西の要塞攻撃 106
十六、アマケンの戦闘 109
十七、スコールの中の睡眠 111
十八、シンガポール市街攻撃 111
十九、酒向第二大隊長、小柳副官の戦死 112
二十、戦友の戦死と負傷者の手当 114
二十一、シンガポール陥落 119
二十二、英軍降伏の会談 120
二十三、シンガポール降伏後 120
二十四、俄か仕立ての自動車運転手 124
二十五、中隊の人員調査 124
二十六、入城式はいつ挙行されるか 125
二十七、昭南島命名 125
二十八、山羊肉の給与 126
二十九、セガマット警備 126
ドリアン 127
昭南島で日本の貨物列車 128
第三章 ビルマ戦線
ビルマ作戦 130
水のありがたさ 130
泥水を飲む 133
砂入り飯を喰う 135
サジ残留 136
シャン高原の住民 137
婦人の奇習 138
メクテーラ付近の警備中に 138
牛糞を燃料に 138
恐れ入ったペーパーハウスとは 139
ビルマ人と僧侶 141
内地帰還命令 141
弟、大祐に会う 142
昭和十四年八月召集兵は乗船停止 146
ラングーンで小学校同級生 「山野重盛」「谷一」君に会う 149
門司税関にて 150
小倉第十四聨隊原隊に復帰 150
召集解除、家路へ 153
復員時の家族 154
故郷で想い出の多い方々 155
家からの慰問袋 156
第四章 ボルネオ戦線
ボルネオ従軍記 158
バシイ海峡 162
サンフェルナンド上陸 163
再度、乗船命令下る 163
敵潜水艦の攻撃 164
修羅の甲板 166
沈没船からの脱出 168
漂流 170
救出まで 172
救助ボート 175
朝食の握り飯 177
マニラ上陸 178
ボルネオへ 179
竜巻 179
アピー上陸 180
タダット駐留 181
経理室勤務に至るまでの経過 182
タダット残留 183
同郷の小野博康上等兵に会う 184
大場平三郎上等兵(川ア町田原)に会う 185
平田聡雄(田川市平松) 185
島津止才夫一等兵(金田町) 186
マレー語の勉強 186
ワニ 188
タダット住民とのふれ合い 189
地域住人のダンスパーテー 191
椰子酒について 192
原住民の日常生活 192
原住民の水浴(マンデー) 195
右の手と左の手 196
コーヒーを飲む時コーヒー皿に移し入れて飲む風景 196
結婚式に招待されて 197
グラマン機の空襲を受けて 197
キナバル山麓へ 198
前線で米の集荷 198
三度目の死線 202
トカゲを喰う 203
終戦の日、八月十五日 204
糧秣、被服、受領の苦労 206
命懸けの激流下り 208
終戦の勅語 210
武装解除 211
捕虜収容所 211
野戦郵便局に預金 212
百円紙幣の思い出 212
所持品の整理 213
捕虜収容所入所検査 213
捕虜収容所の生活 214
所外作業での栄養不足とその影響 215
監視兵の善し悪し 216
下、排水溝掃除の日 218
やさしかった現地の村長 220
収容所内の食事 220
乾パン一包が一日分 222
乾パンにまつわる話 222
野草を喰う 223
オーストラリア軍の残飯を喰う 223
山に残した糧秣 224
体重五十キロにみたぬ俺 224
飢餓は人間を変えた 225
帰郷後の決意 226
所内作業 226
ドラム缶便器掃除 228
衛生検査 229
内地帰還 230
帰りの航海 231
四度目のバシイ海峡 232
オーストラリア軍携帯缶詰(レーンヨン)給与 233
大竹港上陸 234
解散式 236
貨幣価値の下落 237
故郷への帰還 237
戦死した兄弟 238
生きているありがたさ 242
●出版に際して
私たち、昭和世代に生を受け、戦後の経済復興期に育った者たちは、その親世代が命を賭して祖国のために参戦した、あの太平洋戦争と言われる歴史についてを、だれもが知っています。
太平洋戦争では、たくさんの人々が犠牲になったと言われます。この国も、長崎・広島で原爆という未曽有の被災を経験し、首都・東京も空襲で焼け野原と化しました。遠く異国の地に戦士として駆り立てられ、激しい戦乱ののち敗戦を迎え、再び祖国に戻ることができた人々は、しかし日本の復興をあきらめませんでした。いまの私たちの繁栄の基盤を築いたのは、まぎれもなく戦争体験者といわれる人たち、私たちの親世代の力によるところが大きいのではないでしょうか。
今、時代は昭和から平成と進み、終戦から数十年が経過して、戦争体験者、私たちの親世代は、すでにほとんどが高齢化し、この時代から去りつつあります。
私の父、岸野愿も、太平洋戦争の体験者でした。子供の私たちにとっては、善き一人の父として、家族のために、私たちの教育のために、そして地域社会のために尽くしてくれた尊敬に値する社会人でもありました。
私たちは、父はいつまでも頑健で、百歳位まで元気に居てくれるものだと勝手に思い込んでいたのですが、平成十七年十二月二十六日、九十四歳で急逝してしまいました。
父の遺品のなかに、『野戦の想い出』と題した原稿がありました。これは父が、あの大戦の記録をあれこれと整理しつつ、原稿にまとめていたものです。父の子である私たち兄弟四人は、この丁寧にまとめられた原稿を読み進むうちに、生前の父が、私たちに何を語りたかったか、何を残し、何を伝えたかったかを思い知らされました。あの世界を二分した大戦というものが一介の人間に及ぼした根深く奥深い想いの数々。父は、一人の人間として、戦争というものが人生にどれほど重苦しくのしかかるものかということを伝えずにはおれなかったのでしょう。清書された原稿と写真の数々、そこから、父の遺志が切々と伝わってきたのです。
父の四十九日、私たち兄弟四人は、総意をもって父が書き溜めていた戦争体験記を本にすることを決めました。
父の原稿を読み返す度に、戦争中に生きることの厳しさ、冷酷さを感じさせられます。過酷な体験を終え、無事、生還したことに敬意を表すとともに、今更ながら戦争当時の前世代の方々は「すごいことを成し遂げたものだ」と、心底思うのです。
驚くのは、父が、三度、四度と死線を越えたことです。一瞬の判断が運命を左右する事実、戦争体験とは恐ろしいものがあります。これが、私たちを育んでくれた父の体験した事実であったのです。
戦争を体験することなく六十年以上も経過している私たちにとって、父の原稿は、改めて戦争について考える格好の機会を与えてくれました。また、人生の生き方、生命の大切さをも教えてくれているように感じます。
本書が、父の存命中に出版できていればどれほどよかったか、それが残念でなりませんが、親父として、よい本を残してくれたと素直に思うのです。
この本の出版は、戦争を知らない私たち世代、さらにこれからの人たちにとって、戦争とはいかに愚かなものであるかを考えさせられる格好の参考書のひとつであると思います。
こうして、みなさまのお蔭によりまして、本書が出版の運びとなったこと、天の父に報告をいたします。
出版に際しては、父の遺志が太平洋戦争の事実をこれからの人たちに伝えることにあることを尊重して、現代人にも読みやすいように原稿の一部に修正を施しました。版元の小堀氏には、出版に関するさまざまなご協力をいただきました。
これで少し親孝行が出来ました。みなさま、ありがとうございます。
平成十八年七月
岸野 圏一郎
岸野 浩二郎
岸野 三郎
岸野 四郎
●はじめに
太平洋戦争後、四十三年を経た昭和六十三年十月で七十七歳の喜寿を迎え、いよいよ老境に入った感がした。
太平洋戦争中二度にわたって召集を受け、五年余ヶ月従軍したそのほとんどを前線で過ごしたので、それらの思い出をかねてから書きためたものを、未だ記憶の乱れないうちにまとめたが、平成三年十月に八十歳になったので、再度加筆した。
この記録は、二度の戦争召集による体験を執筆したノンフィクションである。
一つは、第一回の召集による昭和十四年八月より十八年一月までのもので、南支、マレー、ビルマへの出征についてを、軍隊手帳を基にまとめた。
もう一つは、第二回目の召集による昭和十九年七月より二十一年四月までのもので、フィリピンからボルネオに出征し、終戦を迎え、捕虜収容所から帰還までをまとめた。なお、この記録は、北ボルネオでオーストラリア軍の捕虜収容所に入る前、軍隊手帳を焼却処分したため、記憶を辿ったものである。
この稿を起こしたのは、後代の人々に、戦争がいかに残酷なものか、再びこれを繰り返してはならぬ事を肝に銘じてもらいたいがためである。
戦時中は「大東亜戦争」を「八紘一宇」と呼び、我々の世代はこれを正義の味方と考え参戦した。しかし、終戦後には「太平洋戦争」と呼ばれるようになった。
これにはどうにも納得がいかない。戦勝国からは日本国民に「大東亜戦争」という表現の使用が禁止されたまま今日に至っている。が、どうしても我々戦争体験者には「大東亜戦争」の方が脳裏に焼きついている。
因みに「八紘一宇」とは、太平洋戦争期にわが国の海外進出を正当化するために用いられた世界を一つの家にするという意味の標語であった。
今日、我が国は平和な豊かな時代になった。今まで生きて思うことは言うまでもなく、戦没された戦友、戦争のために亡くなられた多くの方々、そして生存者の成した甚大な努力に対する感謝である。申すまでもなく、戦没された戦友、及び戦争のため亡くなられた多くの方々に、心からのご冥福をお祈り申し上げます。
この大戦を通じて知ったことは、人の誠意というものが、戦乱の地であろうといえども通ずるものだという事だった。それはありがたい体験だった。本文に詳細を記したので、読みとってくだされば幸いである。
もう一つ書き添えなければならないことがある。
二人の男の兄弟がいたが、この大戦で二人ともに戦死をした。
弟、大祐は、昭和二十年六月十四日、ビルマ(ミャンマー)のミイトキナ(ミッチィナー)で、二十六歳だった。
弟、巌は、昭和二十年六月二十九日、鹿児島県大隅半島十四海里沖で、二十四歳だった。
共に若くして戦没した。
ただ一人生還した兄として、二人の霊に冥福を祈り、何かを残したかった。
平成十七年
岸野 愿