私は私−ガユーナ・セアロの至道録
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ガユーナ・セアロ著述 上製本208頁  2005年11月3日初版発行 定価:1,680円(税込)

★電子書籍も発売中!
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歩む人から歩む人へ
至の道への智慧と勇気

 対機説法の録音記録を収録した「至道録」。訊きたかったこんなこと、訊いていいの? こんなこと…、ガユーナ・セアロの講話は、あなたの聴きたいことから始まります。

 君が訊くから答えよう、何度も訊くから何度も言うよ。
 正しいことをしなさい。
 君だけが成長すると思ってはいけない。私も成長する。私も歩む…。君も、歩め。

 逃げるというのは、己が中心ではないということだよ。
 離れても、どの場所にいても、“私は私である”、というのが“悟る”というところに向かわせる。

  (本書、カバー、帯から)    

 
ISBN4-434-07084-3 C0015 \1600E
単価 : ¥1,600 (本体価格、消費税別)
数量 :   (クレジット・郵便振替・代引がご利用になれます)
 
●著者略歴
ガユーナ・サンディマ・セアロ
定住する寺を持たず、“慈悲の旅”を自らの道として歩む、ミャンマー(ビルマ)上座部仏教に得度した日本人僧侶。得度以来、人々に心の平安・自立・調和を伝えつつ、同時に発展途上国への自立・人道支援を続けている。日本、アメリカを含め、平和活動のため継続訪問しているのは現在6カ国。人々へ心の平安を説き自立を促してきた歩みは、支持者により講話・瞑想会と呼ばれる形に発展し、開催地は全国各地、アメリカ12州に及ぶ。また、途上国支援は、手から手へ直接渡す物資配布に始まり、孤児院・学校建設、村開発支援へと活動が展開し、協力・参加者も全国的に広がったことから、「ひとりからひとりへ、心つながる国際協力」を活動指針に国際協力NPO法人を設立(2003年)。

 はじめに

 「セアロ108の言葉」(知玄舎)という本があります。悩みを抱える人、精神性の向上や心の平安を求めてガユーナ・セアロの元を尋ねて来た人々、一人ひとりに対し、目の前で語られたガユーナ・セアロの言葉を収録したものです。その本には、「おまえは……だ」、「……しろ」、と、書店に並ぶ本には例が見られないような口調の言葉が記されています。ガユーナ・セアロをご存じない方が読まれると、眉間にしわを寄せてしまわれるかも知れません。
 しかし、これらの言葉は、苦しみ悩んでいたその方の瞳が、まるで光の玉ように輝き始める、その一瞬前に発せられた言葉なのです。人々は、言葉そのものではなく、ガユーナ・セアロの存在魂と表現したらよいか、エネルギーそのものを感じ受け取られているのではないかと思います。「〜一〇八の言葉」は、求める方が、そのエネルギーに触れられるよ うにと、セアロの口調そのままをまとめたのです。そして、今、多くの方が、「毎日読んでいる、いつも持ち歩いている」、と喜んで下さる一冊となりました。
 それに倣い、また、皆様のご要望にお応えし、新たにガユーナ・セアロの言葉を収めた本書を出版することにいたしました。今回は、二〇〇五年に行われた岡山県、埼玉県での『二泊三日ピース断食・瞑想リトリート(合宿)』、北海道帯広、札幌、石川県、神奈川県で行われた一般公開講和会の録音記録を元に、来場者から寄せられた悩み相談や疑問、そしてそれに対するガユーナ・セアロの返答の両方を収めています。
 ガユーナ・セアロの講話による話し言葉は、誰もが知る言葉ばかりです。仏教等の専門用語はほとんど出てきません。また、題目に沿って用意された説法や、一方的な講義調で行われる事はなく、まるで言葉を固定し定義することを嫌うかのようでもあり、定型立てて話す事も見られません。相手や場、会の目的によって、色んな言葉や表現が使われています。会って質問を受けてから話す、一問一答の対機説法形式です。求めて来た方々が、心の内を用紙に書かれ(無記名)、それに答えながら話は進められます。それは、いつの、どんな会でも変わりがありません。
 口調は前述の通り非常に独特……。率直で、厳しくも優しくもあり、よく笑い、よく笑わせ、涙する方も少なくありません。知らないことや、単なる興味本位の質問には、「知らん」、「はい、次」、と、飾ることも見られません。そのセアロ節と会場の臨場感を伝えられることを願い、限りなく発された、語り言葉のままを起用しています。
 しかし、繰り返し同じ質の内容を、別な表現で読み直すことにより、そこに流れる普遍性、ガユーナ・セアロが伝えている本質を感じ取り易くなるのではと思い、別会場で行われた各講話から、似通った質問や答えを章別にまとめました。また、検索し易くするため、各講和内容のキーワードを内題として付けております。
 ガユーナ・セアロはこう語ります。「言葉はその後に生まれ、そのものではない。言葉は物質である」。この本をまとめるにあたり、響き≠ェ活字となるにつれ、「言葉は物である」ということを非常に実感致しました。
 (記/ミンギイ)

 《目次》 

第一章 「豊かさ」−『私』に必要なもの、『世界』に必要なもの
          …「本当の幸せ」(一般公開講話)

第二章 「楽しむ、味わう」−プロセス、真の価値
          …「競争」(断食・瞑想リトリート講話)

第三章 「信じる」−自分で生きる、共に生きる
          …「…たら、…れば、…のに」(断食・瞑想リトリート講話)
        
第四章 「男と女」−愛、取引の愛
          …「男と女の愛、大いなる愛?!」(一般公開講話)
           …「ソウルメイト」(一般公開講話) 
       
第五章 「身体」−老い、病
        …「意識と身体」(断食・瞑想リトリート講話)
  
第六章 「内観」−『私』を観る、感じる、知る
        …「作った自分と真の自分」(断食・瞑想リトリート講話)

第七章 「見えざるもの」−我、魂、霊、神仏
        …「自分の証明」(断食・瞑想リトリート講話)
        …「宗教」(一般公開講話) −194

第八章 「断食と瞑想」−『私』と『私』
        …ピース・断食(断食・瞑想リトリート講話)
    
第九章 「育む」−教え、育む
        …自らが自らを教える(断食・瞑想リトリート講話)
         …ピュアになって、ありがとう(断食・瞑想リトリート講話) 

あとがき  

 「ガユーナ・セアロの書かれた本はないのですか?」、国内外を問わず、そう聞かれることがよくあります。その道の人、ガユーナ・セアロ!=c…。セアロをもっと知りたい、人に伝えたい、と望まれるのですが、皆様がおっしゃる通り、セアロは、道の人、歩む人なのであります。今日は西に明日は東に。帰る家も寺も無く、数時間から長くて一週間、一所に留まれば、翌日には飛行機に乗っています。そこで何をしているか……? 道を歩んでいます、としか申し上げられないのです。
 ガユーナ・セアロには、理解させるために、広めるために、残すために、という意図的なものは見られず、行動に大義名分も立てません。従って、著書にする目的で著すという事がありません。自身が人々に語る言葉のままに歩んでいる=Aガユーナ・セアロを伝えるなら、今の私にはこう表現するしか他に言葉がないのです。
 また、『活動の紹介資料』等を求められた時も同じです。今では、日本とアメリカに国際支援、人道支援を目的にした非営利活動法人がございますが、もちろんそれが、ガユーナ・セアロそのものではありませんし、その事業が、彼の道というわけで在りようがござません。NPOの事業は、目的や成果を伝えることは難しくありません。しかし、セアロの歩んできた道がまず在り、目に見える形、実績の部分をNPO化したのであって、元の歩みは部分に収まり得ません。分かり易く例えれば、仏教はあれども、仏陀は仏教に収まらない。マザーテレサ財団はあれども、それがマザーではない……。道を歩む人というのは、それがどんなに偉大であっても小さくても、有名であっても無名でも、そのようなものだと思います。
 今、人々に必要なものは何なのでしょう。私達は、沢山の情報とツールに恵まれ、先師の教えを簡単に手に取ることができ、また多くの研究者の先生方が優しく解説しても下さいます。素晴らしい言葉や解説には、探さなくても出会えるようになりました。チャネリングや霊能者、占い師も沢山いて、見えない世界も語ってくれるような人々も身近に出会えます。
 しかし、その教えや言葉を体現し生きる人、生き方で見せてくれる人は、見つけることが難しい。それを「道の人」というのだと私は思います。人の道、生きる道そのものは、伝え難いものだと思います。何故なら、その人は生きて歩み進化し続けるのだし、下手をすれば実在の人を美化、神格化するようで難しいものです。
 だからこそ、ガユーナ・セアロを感じた方々は、「伝えたい、一度会って欲しい」と望まれるのだと思います。会えば分かるから……、と。私もやはり、感じて頂くこと、体験して頂くことがガユーナ・セアロを知る一番の方法であり、皆さんの道、人生に活かせるものになるのではないかと思います。
 どうか、ガユーナ・セアロに会われた皆様が、この本をお読みになり、再び感じて頂き、更に深く貴方様のその道を歩まれますように……。また、未だお会いになられていない方々が、何か感じられるものがあり、望まれるのであれば、近い将来、お会いできる機会がありますよう、心からお祈り申し上げます。
  平成十七年八月二十八日 (記/亜弥迦)

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