さいたま市誕生 知られざる真実    (2015年5月新刊)    

  旧大宮市長が語る四市一町構想の果て――兵どもが夢のあと


  新藤 享弘 著 (さいたま市名誉市民)

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  四六判 200頁(内フルカラー8頁) 2015年5月31日初版発行 定価:(本体1,700円+税)
  ISBN978-4-434-20374-9 C0031 \1700E 発行:知玄舎/発売:星雲社
  ★電子書籍同時発売(トップページから、各電子書店サイトでご確認ください)
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 埼玉県の政令指定都市「さいたま市」(人口1,263,455人、平成27年4月現在)が、浦和・大宮・与野の三市合併に至った経緯には、街づくりの夢と理想とロマンの陰に、欲と権力、知謀、陰謀、計略が渦巻く、知られざる兵どものドラマがあった。時は21世紀を迎えた前後のこと、本書は、与野(Y)大宮(O)浦和(U)上尾(A)伊奈(I)の四市一町構想=YOUAndIプランの実現に腐心し、背後の野望の数々に翻弄され孤軍奮闘した渦中の中心人物、旧大宮市長の書き下ろし。今だから言える「さいたま市」誕生秘話を、歴史の一証人として後世に伝える衝撃の書。著者を含む当時のキーマン・関係者が、何を考え、何を語り、どう行動したかを実名で詳述。政治の過程が関係者の多種多様な思惑に左右され、理念、面子、利害、人間関係、党派、外的圧力等々が複雑にからみ、予測しがたい展開を示すこととなった「さいたま市」誕生の具体的な経緯が明かされている。市民にとって、埼玉県の『へそ』となる中枢都市構想は、いかにあるべきか。今だからこそ問い質す旧大宮市長の、市政に対する貴重な問題提起満載の書。

★2015年5月30日、6月8日、埼玉新聞に広告掲載予定です。


  
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[著者プロフィール]
 新藤 享弘(しんどう たかひろ)

 1932(昭和7)年9月3日生まれ。さいたま市大宮区出身。旧大宮市長。県立浦和高校、中央大学卒業。父は元埼玉県議会議長を務めた新藤元吉。1980年代から90年代にかけては、JR東日本、ルミネと共同で企業とアイデアを出し合い、大宮駅の利便性を前面に押し出したキャンペーンを展開、県内外より広く集客した。まんが『大宮の歴史』などを刊行し、大宮のPRと活性化に尽力。大宮市最後の市長として大宮ほこすぎ橋の建設にあたった。2003(平成15)年さいたま市名誉市民として顕彰される。氷川神社責任役員。社団法人埼玉県自転車競技連盟会長。NPO法人多文化交流センター理事長。大成山普門院檀家総代。


■目 次

 第一章 ロマンとしての政令指定都市
 第二章 大宮と浦和―主導権争いの構図―
 第三章 浦和市・大宮市・与野市合併推進協議会
 第四章 四面楚歌―反新藤勢力の攻勢と四市一町強硬派議員の急進化
 第五章 大宮市議会、任意協議会をボイコット―合併を壊すつもりか
 第六章 反新藤・強硬派勢力の行方
 第七章 腹は決まった
 第八章 流れが変わった
 第九章 どうしても闘うのか


 はじめに
  
 本書は私の自叙伝ではありません。また、自らの顕彰碑とするつもりもありません。むしろ、本書の中に、状況に翻弄されて思い悩むハムレットのような市長像を汲み取っていただければ幸いです。
 私は、大宮市最後の市長として、さいたま市創設に関わるチャンスを得ました。あれから十四年が経過し、あの壮大なプロジェクトに関わった主要人物の多くは世を去りました。私自身もいつお呼びがかかるか分からないという状況の中で、本書を出版したいと考えました。理由の一つは、さいたま市誕生の歴史の一証人として、事実を後世に伝えておきたいということです。私を含む当時の関係者が何を考え、何を語り、どう行動したかという事実です。政治の過程は関係者の多種多様な思惑に左右されます。理念、面子、利害、人間関係、党派、外的圧力、等々。そんなことが複雑にからみ、予測しがたい展開を示すことになってしまうことがあります。さいたま市誕生という生みの苦しみの中で、政治とは何か、それに関わる政治家の使命とは何か、といったことを何度も自問してきました。政治の過程を論ずることは私の任ではありませんが、せめて政治の過程に関わった人々の言動を、大宮市長という限られた視点からですが、記録しておきたいと考えたのです。私がそんな本を出版したいと言うと、何人かの方から、自分のところにある資料を使って欲しいというありがたいお申し出をいただきました。また、膨大な資料を整理し、読み解いてくれる協力者にも恵まれました。本書を世に出すことができたのは、そうした方々のおかげです。
 第二の理由は、さいたま市が誕生してから十四年が経過し、そろそろ、さいたま市の来し方行く末を再検討してみるタイミングではないかと考えたからです。さいたま新都心周辺には、ビルやマンションが立ち並び、繁栄を謳歌しているように見えます。しかしながら「YOU And I プラン」以来、埼玉県の『へそ』となる中枢都市を建設したいと願い、熱い思いをぶつけ合ってきた人たちが思い描いていた都市の姿が果たしてこれだったのでしょうか。三市論者(大宮・浦和・与野)の思惑通り、三市で合併し、三市で政令市に移行。国の機関の移転も完了し、その後岩槻市も合流しましたが、それで街づくりが理想形に近づいたといえるのでしょうか。さいたま市は一体どこへ行こうとしているのでしょうか。私にとって、さいたま市の誕生は、埼玉県の『へそ』となる中枢都市構想の通過点であって終点ではありません。この十四年間で市民の意識と生活が実際にどう変わり、今後どう変えたいと思っているのか。それを考える一つのきっかけとして、さいたま市建設で実際にあったエピソード、それにかけた私なりの思いをまとめておきたいと考えたのです。
 なお、本書の登場人物を実名としたのは、それぞれが政治家としての信念に基づいて行動し、それが何らかの形でさいたま市の建設に影響を与えたことを踏まえ、匿名にする必要はないと考えたからです。
 本書の構成をあらかじめ簡単に示すと、記述はほぼ時間の経過に従っています。
 さいたま市建設につながる政令指定都市構想が「YOU And I プラン」という埼玉県の都市構想を継承したものであることを知る人は、現在では少なくなりました。私は市長になる以前から、この「YOU And I プラン」に関わってきました。私の、政令指定都市への熱い思いは「YOU And I プラン」との関わりによって育まれたといっても過言ではありません。第一章は、私とこのプランとの関わり、さらに、市長に立候補する際のいきさつを述べています。
 元々「YOU And I プラン」は、関係する市町の都市連合を目指したもので、合併を前提としたものではありませんでした。大宮・浦和・与野の三市が、合併、政令指定都市化に向け、公式に協議を開始したのは平成六年五月十六日、三市の有志議員からなる「政令指定都市問題等3市議員連絡協議会」の設立からでした。その成果が、平成九年七月七日の三市合併協議会(任意協議会)の設置決議として結実しました。これにより、合併に向けた舞台が整ったことになったのです。
 第二章は、合併に至るまでの争点、そして最後まで決着できなかった論議の結果を書き記しました。任意協議会は、三回の準備会を経た後、平成九年十二月十八日に正式に発足しました。
 第三章から第八章が本書の中心部分です。任意協議会発足後の関係者の動きを、新聞記事や会議資料、関係者のメモなどに基づき、記憶をたどりながら、月日を追って綴っています。その頃の私は、交渉相手である相川宗一旧浦和市長、井原勇旧与野市長と話し合いを続けながら、県側からは決断が遅いと叱責されていました。加えて、「YOU And I プラン」の同志であるはずの新井弘治上尾市長の真意を探りつつ、地元大宮の反新藤勢力という、内なる敵に翻弄されながら孤軍奮闘を続けていました。
 第九章は、さいたま市成立後に行なわれた市長選に触れています。この結果は、読者の方もご存知のように、相川旧浦和市長との事実上の一騎打ちに敗れ、私は政界を引退しました。旧市の現職市長が新市の市長をめぐって争えば、旧市同士の都市間競争が引き起こされ、合併後の市政に禍根を残すであろうことは十分すぎる程に分かっていました。そのため、合併、政令指定都市化の路線をめぐる大宮と浦和の対立に関しては、決裂を避け、協議を維持するために、玉虫色の合意で結論を先送りしてきました。その結果、最終的に市長選挙で決着をつけざるを得なくなってしまったのでした。
 その様な経過を辿り、十四年の年月が流れてゆきました。


 おわりに
  
 平成十三年五月一日、大宮市、浦和市、与野市三市が合併してさいたま市が誕生しました。この歴史的大事業に参加する機会を得たことはとても有意義なことであり、その幸運を与えていただけたことに大変感謝しています。また、この大事業を完遂するにあたり、多くの議員の方々、市民の皆さんから筆舌に尽くしがたいご支援、ご協力を賜わりました。ここで改めて感謝申し上げたいと思います。
 あれから十四年経ちました。筆を置くにあたり、現在のさいたま市を簡単に振り返っておきたいと思います。さいたま市が誕生して十四年、政令指定都市に移行してから十二年になりますが、読者の皆さんが、もし「さいたま市ってどんな都市?」と聞かれたら何と答えますか?
 もう三十年以上前、私たちが中枢都市圏構想「YOU And I プラン」を策定した時、県内の都市はベッドタウン的性格をもったミニ都市でした。住民にも、埼玉県民であるという意識は希薄で、むしろ、埼玉に住みながら東京に通勤・通学を求めていることから「埼玉都民」と呼ばれていたものでした。「YOU And I プラン」は、過度の東京依存を是正し、埼玉県民一人ひとりが住み、働き、学び、憩い、真に魅力と誇りを感じるような埼玉県の中枢都市を築いていこう、いわば、県域の「へそ」を創っていこうとするものでした。
 あの頃に比べ、確かに都市の規模は格段に大きくなり、マンションも予想だにしなかった数になりました。しかし、住民が真に魅力と誇りを感じる都市のイメージは明確になってきたのでしょうか。三十年以上前の課題は解決される方向に向かっているのでしょうか。横浜や神戸は、神奈川県や兵庫県の枠を超えて独自の存在感を示しています。横浜や神戸は知っていても、それがどこの県に属しているのか、ふと考えてしまう人もいるのではないでしょうか。しかし、さいたま市はどうでしょうか。他の市町村と同様、県のイメージの中に埋没してしまっているのではないでしょうか。マンションが増え過ぎ、かえって東京に通う「埼玉都民」が増加してしまい、ますますさいたま市のイメージが希薄化してしまう懸念はないでしょうか。
 一流の都市には、仙台の「杜の都」、あるいは横浜の「みなとみらい」というような、都市の魅力を端的に表現するキャッチフレーズがあります。それは、都市の魅力を全国に発信するものであり、何よりも、街づくりの価値観を市民が共有し、それを象徴的に示すものです。さいたま市が全国に誇れる魅力は、その気になればいくらでも見出すことができます。鉄道もその一つでしょう。大宮駅には現在、東北、上越、北陸の三つの新幹線が発着しており、さらに今年(平成二十七年)末には、北海道新幹線が新函館北斗間開業予定と、名実ともに東日本の玄関口になります。三面六線の新幹線のホーム、これは東京駅を除いては他にありません。発車番線についても、JR東日本だけで二十二番線を有し、東武野田線、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)を加えると二十五に上ります。「鉄道は未来を拓く」というのが私の持論ですが、大宮駅は、未来を拓いていく力と可能性を秘めているのです。また、さいたま市には豊かな自然資源もあります。見沼たんぼは、インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」にもとり上げられているので是非ご覧いただきたいですが、先人の治水、開拓、保護の絶え間ない努力によって、都市化の波にさらされながらも、現在まで首都圏最大と言われる緑地帯を維持してきています。こうしたさいたま市の魅力を端的に象徴するキャッチフレーズを発信できなければならないと思うのです。
 さいたま新都心はさいたま市誕生の原動力でした。そこに国の機関が移転し、業務機能を具えた、人が集まる、さいたま市の顔になることが期待されました。さいたま新都心はさいたま市統合の象徴であり、街づくりへのさいたま市民の夢とロマンを象徴する場なのです。さいたま市に合流した旧市が、真に融合した街づくりを進める上での拠点でなければなりません。旧市にはそれぞれ核となる中心地があり、さいたま市は複数の核を備えた多核都市です。その構造を敢えて変える必要はないでしょう。しかし、新市として統合したからには新市を象徴する新たな核が必要です。さいたま新都心がそれではなかったのでしょうか。さいたま新都心が周囲を活性化する触媒となり、新たな街づくりが進むことを求められているのではないでしょうか。
 さいたま新都心駅の東側エリアを業務機能的エリアに位置付け「マルキュー」の中村社長、宮澤社長、「片倉工業」の清田社長、岩本社長の二代にわたる社長さんに協力をお願いし、時には議論し、コクーンを誕生させました。コクーン2は既にオープンしています。また、新都心への来客を誘動するために、都市工学の伊東先生にお願いし「大宮ほこすぎ橋」を建設。「武蔵一宮氷川神社」の一の鳥居から大宮公園~盆栽村へと一大緑道を構想し、その緑道添いには全国都道府県の土産店を形成させたいと考え、当時、全国知事会の会長だった土屋知事にお願いし承諾していただいた事を思い出します。都市を創るというロマンが都市間政争の具になってしまっては何にもなりません。長い道程を克服し市民のためのロマンを構築したいものです。
 さて、話はもとに戻りますが、さいたま市の新市庁舎をさいたま新都心周辺にという構想に関しては、さいたま新都心が周囲を活性化する触媒になるという期待に基づいています。旧浦和市、大宮市、与野市の合併協定書には、新市庁舎の位置について次の事項が協定されています。
「将来の新市の事務所の位置については、さいたま新都心周辺地域が望ましいとの意見を踏まえ、新市成立後、新市は、交通の事情、他の官公署との関係など、市民の利便性を考慮し、将来の新市の事務所の位置について検討するものとする」
「将来の新市の事務所の位置については、市民参加による審議会の設置など、その協議方法を含め、新市成立後、速やかに検討を開始するものとする」
 この協定書に基づき、平成十三年五月に三市は合併しましたが、そこに規定されている審議会は、平成二十四年七月になってやっと条例化され、第一回審議会が開催されたのは平成二十四年十二月十九日でした。現在は、澤井安勇先生を会長として精力的に検討が行われ、平成二十五年度中に七回の審議会が開催されました。審議会の審議の行方に期待するばかりですが、私は、是非、どんなさいたま市に住みたいのかという都市構想の一環として市庁舎問題を考えていきたいと思います。合併後十四年経って、まさかとは思いますが、審議会が、浦和、大宮がそれぞれの地域エゴを主張しあう場にならないことを祈ります。さいたま市は三市合併という歴史的大事業を成し遂げたので、今後は、新さいたま市の街づくりという第二の大事業に取り組んでいくことを願っています。十年後、二十年後のさいたま市民に、胸を張れるような事業を残したいものです。
 最後に、読者の皆さんはどんな街に住みたいと思っているのでしょうか。さいたま市は、果たして、どんな方向に向かっていくのでしょうか。政治、行政に携わる方々はどんな街づくりをしようとしているのでしょうか。この十四年間、こうした街づくりのビジョンについて語られる機会がめっきり少なくなったと感じています。
 もしそうだとすれば、それは合併協議の負の遺産ではないでしょうか。私は「YOU And I プラン」の理念を引き継ぎ、「職、住、遊、学」の機能を具えた「自立都市」を創ろうとしました。昼、夜間人口の比率は一対一を目指すべきだと考えました。それを実現するものとして政令指定都市を構想しました。もしこうした都市構想について三市が十分に協議し、都市構想の理念を共有できていたならば、合併後の街づくりはそれに沿って粛々と進められ、現在とは違った形になっていたと思われます。しかし、本文の中でも示したように、そうした都市構想は棚上げされ、さいたま新都心に国の機関を移転することが三市合併の大義名分とされてしまいました。三市合併はロマンではなく、与えられた目標を達成する為の政治、行政の過程となってしまったのです。そのために、さいたま新都心が完成して、国の機関が移転し、政令指定都市化が実現した時点でプロジェクトは実質的に終了してしまったのです。本来、さいたま新都心は一つの通過点であって、一つの都市構想に沿って、その後の街づくりが進められなければならなかったのに、です。さいたま市の歴史において、後世、この十四年が「失われた十四年」と位置づけられなければいいがと、私は思っています。
 この本の作成にあたり、関係者の皆さまをはじめ、多くの方にお世話になりました。紙面をお借りして心から感謝申し上げます。
 首長や政治家にはロマンが必要です。市民は、都市づくりのビジョンを共有できるような首長や政治家を選ぶ必要があります。政治に携わる人一人ひとりがロマンを構想し、お互いのロマンを闘わせ、より良き未来を実現していく場が政治であって欲しいと切に望みます。「ローマは一日にしてならず」。されど、「すべての道はローマに通ず」なのです。
  
   平成二十七年五月
新藤 享弘


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