●【Zen悟り考3】悟りと悟る
――鈴木大拙ZEN無分別考 (2014年12月新刊)
永淵 閑 著
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■POD書籍 ISBN978-4-907875-31-2 A5判、価格(本体2200円+税)
2016年6月24日初版発行
(ご購入はPOD書籍取扱い店:アマゾンおよび三省堂書店でお求めください。★その他書店では取扱いがございません)
■電子書籍同時発売、価格(本体900円+税)
2014年12月24日初版発行
(購入はTOPページの販売店でお求めください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎本書について
近年世界的ブームとなった「大拙禅」の成り立ちの基本にあるブッダの教えと「禅」を世界に知らしめた鈴木大拙の著書を通じ、「悟り・悟る」を考察した書。
◎著者紹介
永淵 閑(ながふち かん)
東京生まれ。オーストラリアのシドニー在住。文筆業。同時に、大学でのライティング授業、ハイスクールでの国際バカロレア授業、それに帰国子女受験生の小論文個人指導ほか、日本語ライティング指導を少人数受けている。
著書:『インドを這う』(立風書房)、『サハラを這う』(立風書房)、『イベリア夢街道』(山手書房新社)、『セミリタイアのすすめ』(文香社)、『「哲学する!」練習帳』(文香社)。以下、知玄舎より発行。『国際バカロレアと点才教育(改題・新訂版)』、『シドニー人間紀行――6人6話の光と影』、『タスマニア「般若心経」思索紀行』、『Zen悟り考 「シドニー無常風」、「インナー紀行」、「悟りと悟る」』、『オテントサマの神話』(シリーズ本)、『シドニー無分別庵便り』(シリーズ本)がある。専門は、鈴木大拙の禅哲学の「悟りとはなんぞや」を基盤に、そこから発展させたフィクション、ノンフィクションの執筆。
●目次
主要目次(詳細は目次機能をご利用ください)
序章 悟りの定義と鈴木大拙における禅と悟り
1:悟りの定義
2:鈴木大拙における禅と悟り
第一章 悟りと禅
1:ブッダの悟りと禅
2:悟りと禅の修行者
第二章 悟りと日本人
1:悟りの体得と表現
2:悟りと日本の文学
3:悟りと禅する日本人
4:悟りと日本人の禅する生活
第三章 悟りと悟る
1.「悟りと悟る」の定義
2.ストン!の体得 「悟る」とオノマトペ
3.地上における宇宙経験
4.東日本大震災と日本人の歴史的言動と「悟る」、および「カケラの詩」
終章 「悟る」から「新人間・ニホンジン」へ
1.ブッダからフクシマへ
2.新人間と閾値
3.新人間の魁
4.「悟る」から「新人間・ニホンジン」へ
まえがき
悟りとは何ぞや。これが、長年にわたって私が知りたいと考えてきたことである。それを禅という切り口で、百冊以上の和書と英書の著書で詳述してきたのが、世界の禅学者と言われる鈴木大拙である。しかし、その文章および内容は非常に難解である。私はその著作集を何回も何回も巨細に読み込み、それに私の個人的な経験と、普遍的無意識から湧いてきた言葉と、宗教や仏教や禅についての本からの知識などを加味して、個人的知見としての「悟りとは何ぞや」について編んだのが本書である。
当初、私は所属するシドニーの大学を通じて、論文として提出することを考えていた。和文での提出も可能とのことで、和文で原稿は書くが、同時に、それを英文に翻訳して多くの欧米人に読んでもらいたいと考え、構成や内容を考えた。それは、Zenについて、欧米の知識人は大いなる関心を寄せていることを知っていたからである。また、私が住むオーストラリアのシドニーの大きな書店では、宗教コーナーに多くのZenの本が置かれていることもそれを裏づけていることを知っていたからである。
しかし、あの東日本大震災が起り、私は日本で、まず普通の本としての出版をしたいと考えを変えた。論文として提出するよりも、多くの日本の方に読んでいただき、西洋人にはなかなか理解しにくい悟りを、理解しやすい日本人へ最初に読んでもらうのが筋だと考えたのである。さらに、手垢のついた「悟り」という言葉を、私は「無分別」と最終的にここでは言い換えることにした。そのため、当初の計画を変え、構成・内容面で大幅に変更をした。そこから発展させて、哲学と哲学する、禅と禅する、悟りと悟る、名詞と動詞、の大いなる差異について言及したいと考えた。加えるに、海外に長年住んで考え続けてきた、「日本人とは何か」「日本文化とは何か」を、「無分別」という言葉をキーワードにして解き明かしたい、と考えた。「日本という器の外」から見える「日本」を、日本人へ、そしてそれから英文翻訳により外国人へ提起したいと考えた。
以上が、本書執筆の意図である。学習途上の私は、その学習途上の内容を公開することに恥ずかしさを多いに感じているが、しかしながら、出版することにより多くのご叱正をいただき、さらに学習を進めていきたいと思っている。そのような意味で、これは私の死ぬまでの研鑽の途中報告書、といったものである。さらなる学習を約束して、ここに提起する次第である。