Zenする 夢記2「修羅ニホンジンを物語る」

   ――オテントサマの神話第7~12巻(改訂・総合版)  (2016年9月新刊)

   永淵 閑 著
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  ■POD書籍 ISBN978-4-907875-35-0 A5判、価格(本体2000円+税)
   2016年9月9日初版発行
   (ご購入はPOD書籍取扱い店:アマゾンおよび三省堂書店でお求めください。★その他書店では取扱いがございません)
  ■電子書籍同時発売、価格(本体800円+税)
   2016年9月2日初版発行
  (購入はTOPページの販売店でお求めください。
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 ◎本書について
本書は、2014~2015年にかけて出版された電子書籍『オテントサマの神話』第7~12巻(知玄舎)を推敲・改訂し、一書に統合したもの。
オテントサマに告げられたフシギな大人のメルヘン第7~12巻改訂・総合版。

 
夜明けの夢が開いた深層世界の旅路、夢想のなかでオテントサマから告げられた、不可思議な異界の様を、半覚醒、無意識の自動筆記法で物語った『オテントサマの神話』シリーズ。本書は、電子書籍(知玄舎)『オテントサマの神話』第7巻から第12巻を(種本として)時間をゆっくりかけて統一・整理しなおし、推敲を重ねた総合版。すでに同様に、1~12巻を一書にまとめた『夢記1』(休刊)の後半と内容は同一。ただし、本書では、内容の改訂に加え縦組みへの変更などレイアウトを一新。

◎著者紹介
永淵 閑(ながふち かん)
東京生まれ。オーストラリアのシドニー在住。文筆業。同時に、大学でのライティング授業、ハイスクールでの国際バカロレア授業、それに帰国子女受験生の小論文個人指導ほか、日本語ライティング指導を少人数受けている。
著書:『インドを這う』(立風書房)、『サハラを這う』(立風書房)、『イベリア夢街道』(山手書房新社)、『セミリタイアのすすめ』(文香社)、『「哲学する!」練習帳』(文香社)。以下、知玄舎より発行。『国際バカロレアと点才教育(改題・新訂版)』、『シドニー人間紀行――6人6話の光と影』、『タスマニア「般若心経」思索紀行』、『Zen悟り考 「シドニー無常風」、「インナー紀行」、「悟りと悟る」』、『オテントサマの神話』(シリーズ本)、『シドニー無分別庵便り』(シリーズ本)がある。専門は、鈴木大拙の禅哲学の「悟りとはなんぞや」を基盤に、そこから発展させたフィクション、ノンフィクションの執筆。


●目次

(第1~6巻は既刊『Zenする 夢記1「近未来ニホンジン再誕生奇聞』に収録)
 第7巻 
 1章 蟻地獄ホテル
 2章 フシチョー
 3章 シソンという名の橋
 4章 ジブンの樹
 5章 ネコスケ
 6章 近未来人類誕生
 7章 祈りのクークーさん
 8章 ナンキョクカゼの神
 9章 被験のバツ
 10章 魂のバード
 第8巻 
 1章 ハカセとフツービトとナマケモノ
 2章 クゲという旅人
 3章 ズショと外に出た脳
 4章 神木コーゾー
 5章 銀色トビネコ
 6章 イエデと森の精
 7章 ユメイチさんと夢の樹
 8章 ステステの神
 9章 不忘却のバツ
 10章 カガミの鏡
 第9巻 
 1章 夜盗の親子
 2章 分身の術
 3章 ピノキオ自動車
 4章 ムヨーという名の樹
 5章 ブッダとクロチャン
 6章 カゲウス
 7章 演じる
 8章 パラレルワールドの神
 9章 痛打のバツ
 10章 カゲロー
 第10巻 
 1章 呑みこまれた民族
 2章 ざしきわらしボッコちゃん
 3章 オシャベリ石とムクチ石
 4章 カイリン
 5章 ノンちゃんのネコ武士道
 6章 アイサツ議員
 7章 モリダさんの森
 8章 フクロの神
 9章 狩猟のバツ
 10章 アナタ風
 第11巻 
 1章 コガネモチ
 2章 まっ黒サロマ
 3章 クートケー
 4章 タンポポ雲
 5章 ノンちゃん修行中
 6章 オキナの恩送り
 7章 イカヅチ
 8章 ヤミの神
 9章 罵倒のバツ
 10章 外にでた脳
 第12巻 
 1章 自爆
 2章 カマイタチ
 3章 カベの壁
 4章 異界からきたポピー
 5章 寝子ネコ
 6章 ちいさなタックスイーターの死
 7章 ニューサムライの祖
 8章 ウム神
 9章 無関心のバツ
 10章 オイディーとイオ
 あとがき――Zenする! ということ
 謝辞


あとがき――哲学する! ということ
  
  
生きながら死人となりてなりはてておもひのままにするわさそよき  至道無難
  
哲学も宗教も、その究極のテーマは、「死」ではないだろうか。この「死」をしっかり見つめることによって、「生」が生き生きとしてくるはずである。しっかり死を見つめ、しっかり死んでいくことが出来るようになったら、しっかり生きることが出来る、のではないだろうか。
  
江戸時代初期の、至道無難という臨済宗のお坊さんが遺した上記のコトバは、私を刺激する。きっと、宗教者だけでなく、多くの哲学者、文学者、あるいは芸術家なども、上記の生き方を、それぞれのコトバで話し、書き、表現しているのだろう。そのように表現している人生の目標は、比喩的に言えば、不二山の頂上である。その不二山の頂上を目指すのに、宗教者や哲学者や文学者や芸術家は、既成の登山道ではなく、それぞれがそれぞれの自分の登山道を新たにつくり、そして頂上を目指している、と言える。そう考えれば、私の登山道は、現在、「哲学する 夢記」である。
  
そして、その頂上の風景が上記のコトバが内包している世界である。「生きながら死人となりてなりはてて」とは、まず、「死者とはどういうものか」について解き明かさなければならない。「死者」とは、肉体が死んだ者である。その肉体は、すでに「人」ではなく、「物」である。死者は、重い肉体を脱ぎ捨て、肉体という物に囚われた存在ではない。肉体に囚われないということは、時間と空間に囚われないということである。時空から解放された、ということである。これは、何を意味しているのだろう。
  
生きている人間は、ブッダが言うように、生老病死という苦を背負って、日日を生きている。しかし、肉体を脱却した死者にはこの苦はない。死者には、生老病死の苦だけでなく、さらに、嫉妬心などの感情や、金銭欲などの欲望や、恣意的な論理を振り回して自利を肯定するジブンというものもない。つまり、それらの囚われから自由になったのが、死者なのである。肉体を脱ぎ捨てた死者は、時空から、そして感情や欲望や恣意的な論理から解放された、のである。この心境に、生きている間に達する、それが人生の目標であるのだろう。そうすれば、至道無難がいうように、「おもひのままにするわさそよき」、となれるということである。
  
「おもひのままにするわさそよき」とは、日日、自由かつ自在に、囚われのない生き方をするということである。その世界への黄金の門を開ける問答が、私にとっては、本書で綴ってきたオテントサマの神話である。オテントサマの神話が、自分の深いところで、ストン! と音がして、ゆったりと納まったときに、私は、生きながら死人になる、ことができるのではないだろうか。本書のモノガタリは、私の登山道である。この登山道は、不二山の頂上をめざす道であり、同時に、自由自在な世界への道であり、そして、インナーワールドの冒険への道でもある。
  
上記を前提にして、「哲学する!」ということについて考えてみる。私は、「思う」と「考える」を区分けして使っている。たとえば、「思う」は、「今日のランチは何を食べようか?」というような場合に使う。それに対して、「死とな何か?」について自問自答するときは、「考える」とう言葉を使うことにしている。私の場合、「話して思う」と「書いて考える」というように区分けしている。書くことによってはじめて論理的な整理ができるので、明晰でない私は、つねに書くことを心掛けている。
  
同様に、「哲学」と「哲学する」も区別して使っている。たとえば、私にとって、「死とは何か?」を、哲学書を読んで、過去の哲学者がどのような考えを述べているか調べるのが「哲学」である。それに対して、死に直面したときに「私ならどうするだろう?」という行動原理を煮詰めていくことが「哲学する」である、と考えている。つまり、「哲学する」とは、自分の責任ある言動の基盤になる姿勢を、つねに考えておくこと、ということになる。たとえば、隣国の秘密部隊が夜間に、海辺の我が家に押し入り、妻と娘を拉致しようとしている、とする。そのときのために、「私ならどうするか?」と考え、その行動原理をしっかり定着させておくのが、「哲学する!」なのである。
  
本書にもどると、夜明けに見た夢を記録するというのは、私にとっては、「考えること」であり、「哲学する!こと」なのである。たとえば、死について考え、ある危機的な状況に遭遇したときの対応を考える、というのが「哲学する!」である。そういう意味で、本書は、私にとっての「哲学する!授業」のテキストになっている、と考えられる。いつか、本書を、自分で分析し、エッセイ(小論文)を書いてみたい。

  


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