Zenする 夢記1「近未来ニホンジン再誕生奇聞」

   ――オテントサマの神話第1~6巻(改訂・総合版)  (2016年8月新刊)

   永淵 閑 著
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  ■POD書籍 ISBN978-4-907875-34-3 A5判、価格(本体1800円+税)
   2016年8月26日初版発行
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  ■電子書籍同時発売、価格(本体800円+税)
   2016年9月2日初版発行
  (購入はTOPページの販売店でお求めください。
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 ◎本書について
本書は、2014~2015年にかけて出版された電子書籍『オテントサマの神話』第1~6巻(知玄舎)を推敲・改訂し、一書に統合したもの。
オテントサマに告げられたフシギな大人のメルヘン第1~6巻改訂・総合版。

 
夜明けの夢が開いた深層世界の旅路、夢想のなかでオテントサマから告げられた、不可思議な異界の様を、半覚醒、無意識の自動筆記法で物語った『オテントサマの神話』シリーズ。本書は、電子書籍(知玄舎)『オテントサマの神話』第1巻から第6巻を(種本として)時間をゆっくりかけて統一・整理しなおし、推敲を重ねた総合版。すでに同様に、1~12巻を一書にまとめた『夢記1』(休刊)の後半と内容は同一。ただし、本書では、内容の改訂に加え縦組みへの変更などレイアウトを一新。

◎著者紹介
永淵 閑(ながふち かん)
東京生まれ。オーストラリアのシドニー在住。文筆業。同時に、大学でのライティング授業、ハイスクールでの国際バカロレア授業、それに帰国子女受験生の小論文個人指導ほか、日本語ライティング指導を少人数受けている。
著書:『インドを這う』(立風書房)、『サハラを這う』(立風書房)、『イベリア夢街道』(山手書房新社)、『セミリタイアのすすめ』(文香社)、『「哲学する!」練習帳』(文香社)。以下、知玄舎より発行。『国際バカロレアと点才教育(改題・新訂版)』、『シドニー人間紀行――6人6話の光と影』、『タスマニア「般若心経」思索紀行』、『Zen悟り考 「シドニー無常風」、「インナー紀行」、「悟りと悟る」』、『オテントサマの神話』(シリーズ本)、『シドニー無分別庵便り』(シリーズ本)がある。専門は、鈴木大拙の禅哲学の「悟りとはなんぞや」を基盤に、そこから発展させたフィクション、ノンフィクションの執筆。


●目次

まえがき
第1巻
1章 オバサンとネコとカナリア
2章 ユイと鳥居クスタ君
3章 ドーロの気持ち
4章 レインツリー
5章 マーちゃんとネコダ
6章 弱虫ファイヤーファイター
7章 詩になった男
8章 リンゴの神
9章 不死のバツ
10章 1/2ネコ女
第2巻
1章 ウサギ穴
2章 テング
3章 城門
4章 葉っぱの会話
5章 のノ字無用之介
6章 ハラ族
7章 ジャパニブッダ
8章 キセキの神
9章 不眠のバツ
10章 レンコク島
第3巻
1章 いたずら息子とクロコダイルと大蛇
2章 カッパの寝太郎
3章 オキテ
4章 ウロ
5章 イエデネコ
6章 ニサンの遺伝
7章 点才テンさん
8章 ミミナシの神
9章 閉所のバツ
10章 変身ウサギ
第4巻
1章 ウキ大陸
2章 タヌキン
3章 メビウスジン
4章 バードという名の花
5章 バケチャン
6章 石化したムイ
7章 コンセさん
8章 死神
9章 毒飲のバツ
10章 セミ1万回
第5巻
1章 黒い森のオンナ
2章 ジンセー120年
3章 テチョーと自立
4章 キコリと森の樹
5章 ネコシマでの修行
6章 カゲ商人
7章 ムサシとニテン
8章 ヨゲンの神
9章 孤独のバツ
10章 ゴルフボール
第6巻
1章 サファリのカンコーキャク
2章 小鬼と老鬼
3章 ジショの園
4章 月下美人
5章 ノミスケのセカイ
6章 宗匠のハラキリ
7章 ゲージツカ
8章 シットの神
9章 再生のバツ
10章 アニメヒト
あとがき――本書の背景と自己分析


あとがき――本書の背景と自己分析
  
  
脈絡なく、思いつくままに、個人メモとして記す。私にとって、私の『Zenする 夢記』というのは、本当にこれでいいのだろうかという、整理できていない状態がいまだ続いている。推敲し、全編を通じて統一・整理を進めるほど、原初の夢の記録から遠ざかるのではないか、という不安を抱いている。本書に記されたことは、ジジツとは違うことが多々ある。しかし、ジジツというのは「藪の中」ともいえる。そう考えると、本書は、ジジツではなく、オテントサマに告げられたシンジツかもしれない。そのようなことも含め、第24巻まで書き終えた現在、「本書とは何ぞや?」を、ここで改めて考えたいとおもう。
  
この『Zenする 夢記1「近未来ニホンジンを物語る」――オテントサマの神話シリーズ1~6巻』は、私がいつも夜明け前の真っ暗闇のなかの、半覚醒のときにみるフシギな夢を書きのこしてみたい、とおもったときから始まった。そこでみる夢のセカイは、私の日常世界では考えてもみなかったようなモノガタリがつむぎだされていたのである。言い換えれば、これを記すことは、私の夢記録を書き残すことである、とおもった。240譚にわたって、自分の夢を記録し、さらに現在も新たな夢を記録し続けている。しかしながら、私は、そこで何かを見、そこで何かを求め続けている。夢は、私に何かを教え、私をどこかへ導いている、とおもった。
  
フシギなことに、老いてきてからみる私の夢は、明るくなり、人間にたいして肯定的になり、未来に対して希望に満ちるようになった。それは、「自省と感謝と哀しみと祈り」という言葉に集約されるようである。現実が暗く否定的なほど、夢は明るく肯定的になった。もう、暗く哀しい現実を後追いしたくない気持ちが満ちてきていた。人格進化した近未来に眼が向いてきた。ただ、ふつうの夢と違うのは、起きてから夢のセカイを書きはじめると、自動筆記法のようにして書きはじめると、私の夢はいつも、場面でなく、一つのモノガタリになっていた。そのモノガタリには、ユーモアやナミダがあり、私を感動させ、カタルシス(タマシイの浄化)がもたらされた。そこに、何らかのオテントサマの意図があるのだろう、と最初は考えて、始めた。
  
およそこの2年間、『Zenする 夢記』を書き続けてきた。寝る前に、明日の早朝に書こうとおもう分野について、たとえばトリックスターについて、考えながら眠ると、ほぼ、私の希望の分野(章分けしたもの。まえがき参照)の夢をみることができるようになった。眠っている間に脳が活動し、深層無意識とつながり、それをモノガタリとして湧きださせているのだろう、と考えるようになった。私がひごろ抱いている考え方にそったものが、そうでないものもたくさんあるが、湧いてきている、とおもえるようになった。私の脳は、起きているときよりも眠っているときのほうが、はるかに活動し、エネルギーも膨大に使っている、と感じた。
  
最初のうちは、起きて書くのがつらかった。また、起きた途端に、それまでみていた夢を忘れるのが普通なのに、それを書きのこすために記憶しておくという脳の使い方は、それまでしていなかったので、多大のエネルギーを要することに気がついた。240譚の夢を記すためには、強い意志力と、それに集中力と持続力を必要とした。そのための強い体力も必要とした。体力維持・増強のための日日のトレーニングを始めた。ほとんど人に会わず、外食もせず、一日も休まず、書きつづけた。24時間、365日、わき目もふらず、集中してシゴトをした。そうして、私は、約2年間にわたって夢を記録し続け、気がついたら、240譚まで進んでいた。いまでは、夜明けをはさんだ4~5時間が、私にとっては、非常にタイセツな時間となった。私の人生の習慣となった。
  
私は、夜明けの夢を記しているなかで、起きてからの負担をできるだけ軽くするために、しばらく経ってからは、各モノガタリの書き初めと書き終わりは共通化した。すぐに、『Zenする 夢記』に入るためである。以後、すぐに、夢の記録にはいることができるようになった。ほとんど毎朝、夏冬かかわらず、午前4時ごろにはベッドを出て、机に向かい、それまで見ていた夢を記録していった。そして、一時間前後で記したラフ原稿を、カタチにする数時間後には、疲れきって、朝寝を一時間ほどする習慣がついた。夜明けからの4~5時間で、つまり、午前9時ごろには、私は、一日の主要なシゴトを終えた気分になっていた。教員のシゴトは、すべて午後だけにしてもらった。
  
夢を記するなかで、私は、異界をみるようになった。このセカイは、眼に見える世界と、眼に見えないが確実にあるのだろうセカイの混ざり合ったものだろう、と私は考えはじめた。このリアルワールドの影もふくめたメビウスワールド(筆者の独自用語。第4巻・3章の「メビウスジン」参照)は、私を魅了した。私は、夢をとおして、深層無意識からの伝達媒体になったような気分がした。私はその伝達主を「オテントサマ」としたが、そこからコトバを預かり、記している気分をもつようになった。なぜ、「オテントサマ」というコトバが出てきたのか、私はわからない。これも湧いてきたコトバである。そのオテントサマから預かったモノガタリには、たいていは、私の考えが混ざり合っていた。
  
私は続けた。これは、私のアイデンティティを語る個人的な神話になるのではないか、と考えたからである。私は、子どものとき、虚弱だったため、劣等感にさいなまれ、バカでゲスなジブンを、何度も捨てたいとおもうほど悩んでいた。バカで、ゲスで、ヒキョーで、ヒレツで、ウソツキで、と幾らでも自分を否定するコトバは出てくる。そして、最初の本を37歳で出して以来、書き続けていくうちに、少しは人格の修養ができ、さらに、眼前の汚れたガラスは、いつかは取り払われていくのではないか、と期待した。もう少しだけ続けてみようという思いで日日を過ごしてきた。そして、『オテントサマの神話』を240譚まで書き終わった現在、わかってきたことは、相変わらず私はバカでゲスだが、それを素直に受容できるようになったことである。それが私だ、とわかったことである。そして、それが、私のアイデンティティの底辺に横たわるものだ、と気がついた。
  
今回、そうしたなかで、本書を記すための私の文体の確立をめざした。自己を卑下し過ぎるのでもなく、イヤミな上から目線でもなく(オテントサマは天上のソンザイなので、これには困った)、読んでくれる方が、神話セカイに抵抗なくひたってくれる文体にしたいと考えた。オテントサマからのメッセージを素直な文章で伝えたい、とおもった。そして、個人的な夜明けの夢を、一つの神話モノガタリにしてまとめるためには、カタチとしての、特殊な、より適切な、文体があると楽であると考えた。そして、本書のような構成や文体が、未完成ながら、できあがっていった。それは、ぜひとも必要な過程であった。しかし、いまだ未完成で、今後、さらに推敲していく必要を感じている。
  
実を言うと、私はこの『Zenする 夢記』に満足していない。100パーセント、深層無意識から湧いてきたモノガタリだと考えられるものと、それ以前に読んでいた本や、時事的なニュースや、日常的な些事やストレスなど、に強く影響されていたな、とおもうものがある。落ち込んでいるときは、それが影響した。私の汚れたタマシイが付着したとおもわれるときは、それなりのモノガタリになった。また、繰り返し湧いてきたトピックスもあった。それは、そのまま記することにした。きっと、そこは、私の関心の度合いが強いのだろう、と考えた。忘れられていた私の脳の引き出しが数十年ぶりに開けられ、引き出された、とおもうものもあった。ただし、繰り返しになるが、ここに記したものは、日中、物語を考えて創作して書いたものではなく、夜明けに湧いてきたモノガタリをメモし、それを推敲した『Zenする 夢記』である。
  
このモノガタリを私なりに分析すると、私の「意識」は地表にある。鉛筆を見て、「これは鉛筆です」と考え、パソコンを見て、「これはパソコンです」と考えるのは、眼に見える世界、つまり意識のレベルである、とまず、考えた。しかし、夜明けに見る夢のなかに湧いてくるものは、「意識」のレベルのものではない。地表ではなく、地下のセカイ、あるいは天上のセカイのものである。私はそれが深層無意識のセカイからのものであると考えた。そして、この240のモノガタリは、三種類の深層無意識に分けられるのではないか、と考えた。個人的無意識からのモノガタリ、民族的・文化的無意識からのモノガタリ、それに普遍的無意識からのモノガタリ、である。
  
個人的無意識のレベルで湧いてきたものは、私の個人的な知識や経験や思考からのもので、民族的・文化的無意識のレベルで湧いてきたものは、私がニホンジンであるというというところから湧いてきたものだろう。そして、普遍的無意識のレベルで湧いてきたものは、古今東西の人間共通のものだろう、と考えた。それらが混在してモノガタリが湧いてきたのだろう。湧いてくるモノガタリを私は支配できない。私の非支配のセカイから湧いてきている。その非支配から湧いてきたものは、私には興味深く、私の好奇心を刺激してきた。深層無意識セカイほど興味深いものはない、と強くおもうようになった。脳にたいする関心が、以前以上に増した。
  
私は、ひごろ、「人間とは何ぞや」と考えているが、その「人間とは何ぞや」を起きている昼間考えているときは、言葉で考えている。それは、「人間について」である。しかし、夜明けの夢のなかで出会う「人間」は、「人間そのもの」、であり、これを私は、「ニンゲン」とカタカナ書きにして区別した。諸々の存在についても、言葉で考えているときは「存在」としたが、夢のなかで出会う存在は、言葉を超えた「ソンザイ」であった。つまり、「そのもの」を表わすときは、原則として、カタカナ書きにして区別した。そのとき私は、世界(現実・意識界)とセカイ(夢・無意識界)のメビウスワールドを旅していた。この「そのもの」は、たとえば、「机を見た」と「机そのものを見た」の違いである。
  
本書は、夜明けの夢のなかから湧いてきたものを記したものである。それはすでにストーリーになっていたが、そこにはある主題があり、意図があることを最初から理解していた。それを伝えるためには、夢を記したメモのままであるよりも、読みやすいカタチをもったものになおす必要を感じた。そして、その作業を行なうなかで、これは、きっと、この『Zenする夢記』だけでなく、多くの文学作品や芸術作品や音楽作品、それに科学分野でのあたらしい発見なども、同様に、深層無意識から湧いてきたものをカタチにしているのだな、と確信するようになった。人間の能力、それは生まれてきてから獲得した知識や技術や経験、には限界があるだろう。
  
しかし、深層無意識セカイには無尽蔵のタカラが埋まっている。湧いてくるというのは、深層無意識とつながることである。湧いてきたものを得手の手段で表現するのが、超一流の作家や芸術家や音楽家や科学者の方々なのだろう、そんな推測をした。つまり、多くのひとを感動させる、詩や小説や演劇や映画や絵画や音楽、さらに、人間や世界を解明し、日日進歩していくサイエンス、それらの先頭を走っている方々は、深層無意識とつながって、そこから湧いてきたものをカタチにしているのだろう、とおもった。もちろん、その前提として、知識・技術・経験を土台にしているが、それらの方々の作品や発見は、深層無意識とつながったときにのみ生み出されてきているのではないだろうか、と推測した。
  
ここで、推敲上、あるいは編集上で戸惑ったことを記しておく。24巻分を書き終えてから、全体を通じて、用語、あるいは時制の面でできる限り統一しようと考えた。しかし、夢を記したときは、そのような統一が取れていなかった。そのため、現在形と過去形の混在などが残された。ひらがな・カタカナ・漢字も不統一のままになった。さらに、モノガタリのなかの語り手、つまり、主語は、オテントサマなのか、登場人物なのか、あるいはそれを記している私なのかが、私自身もはっきり区別できないものが多く出てきた。しかしながら、それはそのまま生かすのが一番適切だろうと考えて、夢を記したときの言葉遣いを尊重するようにした。推敲は意識レベルのものだが、夢は深層無意識レベルのもので、私は深層無意識レベルのものを尊重し、優先しようと考えた。そのため、最後まで、未完成原稿のおもいが残った。
  
さらに、この「私」についても、つねに書きながら考えていた。「私」は、時には夢を記している私だが、時には、ザザー、ザザ、ザザザザザー、と吹く風になったり、レンコク島のイグザミナーになったり、銀色トビネコになったりしているようだ。つまり、「私」は、すべてでもあり、また、個々のソンザイでもあるのだ。それは、限定した存在ではない。私であり、アナタでもあるのだ。個々のソンザイであり、すべてなのである。それは、「私の肉体」という肉体を脱いだ時空に囚われないソンザイである。つまり、無分別ソンザイである。こういうおもいを強くもちながら記してきたため、、本書における主語の統一は困難であった。夢のなかの深層無意識とつながったセカイは、主語さえも脱却した自由自在なセカイなのかもしれない。
  
そして、本書は、「近未来ニホンジンの誕生神話」だな、という感慨を、あるときからもった。一般的な神話は、その民族の誕生神話が普通だが、これは、その内容から考えて、「近未来ニホンジンの誕生神話」であるのだろう。予知夢というものかもしれない。そこに私は立ち会えた喜びを感じている。そして、その予知夢の内容は、おおきくは2つに分かれている。私の願望と私の反省である。「私の願望」は、「ニンゲン、いかに生きれば美しいか」のモデルとなる、近未来ニホンジンのモノガタリである。「私の反省」は、「私の劣等感からくるシットシンやゾーオシン」などの感情や欲望に振り回されている「私」を、脱却すべきモノガタリである。
  
私は、この『Zenする 夢記』を、将来、コミック、アニメ、ドラマ、小説、絵本、それに、哲学授業の教科書などにしたいと夢想している。さらに、少しずつ進めているのだが、私は、自分で英訳を始めている。そこで、私の日本語の不備や考えの不明瞭さにいろいろぶつかっている。それは、論理的な思考をするためには、ひじょうに有効な方法である、と考えている。私は、年齢を重ねていくということは、感情や欲望の世界の囚われの衣を脱ぎ、自分に都合のいい恣意的な論理を脱却し、モノゴトの神髄、つまり、「そのもの」に少しずつ近づいていくことだろう、とおもっている。そのためには、表現媒体や方法をいろいろ変化させることも必要である、できるかどうか分からないが、と考えている。
  
そして、これらは、単なる夢の記録ということだけでなく、リアルワールドとその影もふくめたメビウスワールドを行き来することである、ともおもっている。言い換えると、それは、現実世界と異界、人間世界と他のソンザイのセカイ、生の世界と死のセカイ、死後のセカイとしての現世と転生したセカイ、それにジゴクのセカイ、それらを、時空に囚われることなく、自由自在に行き来する能力を獲得することでもある、と考えている。それは、モノゴトの真髄のセカイ、本質のセカイではないか、と想像している。私はいま、「夢のセカイ」の深さを知ってしまったようだ。夢は、私のすばらしいミチビキヒトである。
  
最後に、私の個人的な考え方を付記しておく。残念なことに、私の個人的な考え方と、『Zenする 夢記』として告げられた内容は、異なっているところがある。私の基本的な考え方は、「無分別」である。無分別を別な言葉にすれば、「悟り」である。無分別では、善と悪を分別しない。美と醜を分別しない。敵と味方を分別しない。さらに言えば、東西南北も老若男女も分別しない。そのような生き方をしたいと考えている。なぜなら、分別するところから私の悩み・苦悩は始まるからである。分別の基準はつねに不明確である。分別というのは、私の感情や欲望や恣意的な論理から始まるとおもっている。それは、たとえば、十字軍は、正義の戦争と考える立場と、トルコのように侵略者の軍隊と教科書でも載せる国の違いがあるからである。そこには、正義というコトバは、自分たちにとっての正義、という意味でしか使われていない。それが分別である。
  
ただし、分別を知識というコトバに置き換えると、必要な知識はできるだけ多くもちたいとおもっている。知識や経験を基盤にして、はじめて、モノゴトの真髄への旅が始まる、とおもっている。しかし、それは私がコトバというものをもってしまったヒトだからである。言い換えると、ネコには正義・不正義というコトバはない。ネコには昨日・今日・明日というコトバはない。ネコには生死というコトバはない。ネコは、明日を心配したり、死を心配したりはしない。そういうコトバをもっていないからである。つまり、この『Zenする夢記』が求めているところは、ネコの哲学なのかもしれない。私の考え方の基本は、分別ではなく無分別である。これが、オテントサマと違う私の立場である。私の師はネコである。
  
(注:以上の文章は、先に出版した『夢記1』で述べた「あとがき」を、本書のために書きなおしたものです。)

  


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